酒井穣「自己啓発をやめて哲学をはじめよう」ブックレビュー〜絶望の書か,希望の書か?〜
酒井穣さんの「自己啓発をやめて哲学をはじめよう〜その絶望をどう扱うのか〜」を読みました。
さらっと30分くらいで読むつもりが,「今まさに必要な1冊かもしれない!」と感じて,精読に切り替えました。
1度読んだ後はどんよりとした絶望感に襲われ,「なにか読み違えをしたかな?」と珍しく再読したほどです。
読書をすると多くの場合,「なるほど!」とか「自分とは異なるけど,そういう考えもあるのだな」とか,一定の達成感があります。
しかし,本書の場合,全面的に賛成・反対,一部賛成・反対,快・不快とか単純に割り切れる類の読後感でなく,大変な「モヤモヤ」が残りました。
このようなある種の消化不良感に近い「モヤモヤ」は,最近あまり記憶にないことであり,書いてアウトプットすることで整理を試みたいと思います。
【目次】
- 【著者について】
- 【自己啓発では金銭的な成功が得られない?】
- 【金銭的な成功を望んではいけない?】
- 【好奇心を自分の内側に向けてはいけない?】
- 【自分こそ正しいと思ってはいけない?】
- 【社会的弱者として生きることは自己責任ではない?】
- 【希望はない?】
- 【まとめ】
【著者について】
著者の酒井穣さんは,1972年生まれ。
慶応義塾大学工学部卒業後,海外の大学でMBAを取得して商社に就職。精密機械メーカに転職して,オランダに約9年間在住。
東日本大震災をきっかけに独立して,現在は(株)リクシス創業者・取締役副社長CSO,新潟薬科大学客員教授,認定NPOカタリバ理事,介護メディアKAIGO LAB編集長を務めています。
2015年,酒井さんの著書「曹操」を読んで私は猛烈に感動し,思わず会いたい!と連絡したことがあり(返信いただいたものの残念ながらタイミングが合わず実現しませんでしたが),敬愛する作家の一人です。
【自己啓発では金銭的な成功が得られない?】
本書は,科学に立脚しない,超自然的なあやしい意味の「自己啓発」に警鐘を鳴らすことを趣旨としており,金銭的な成功を目的に定め,自己啓発という非科学的な努力を積み重ねることはやめたほうがいいと主張します。
金銭的に成功している富裕層の特徴は社会学的に明らかになってきており,「統計的な条件がそろっていない人の成功は,宝くじに当選するように,確率的にとても小さい」といいます。
一方,私は「自らの意思で勉強する」という意味における「自己啓発」や「成長」が好きであり,時間的,経済的な豊かさを望んでもいます。
【金銭的な成功を望んではいけない?】
「金銭的な成功は,多くの人には訪れません。それどころか,人工知能が台頭してくれば,誰もが貧困に陥る可能性のほうが高くなります」という内容は真実かもしれないと絶望を感じながら,いくつかの疑問も抱きました。
「金銭的な成功」とは,どれくらいのレベルをいうのでしょうか?
もちろん,ビルゲイツや孫正義さんのような金銭的な成功は,多くの人は望むべくもないでしょう。
年収100億,10億円レベルも難しいでしょうが,年収1億円であればどうか?
1千万,2千万円でも,到底無理な話なのでしょうか?
金銭的な成功によって幸福感がもっとも上昇するのは1千万〜2千万円までというデータもあり,これくらいの年収レベルを実現することは,希望する者全員とはいいませんがある程度可能と信じたいのです。
あるいは,人工知能の発展により,イヤイヤしていた仕事から解放されたり,これまで年収1千万〜1億円レベルでないと体験できなかった生活や娯楽が,年収300〜500万円レベルで体験できるようになる可能性はないのでしょうか?
(例 : 以前は一部の富裕層しか使えなかった携帯電話が,今では誰もが使うようになりました)
<Photo by Sharon McCutcheon on Unsplash>
【好奇心を自分の内側に向けてはいけない?】
本書は,「自己分析」にも注意が必要といいます。
「就職活動をしている学生に,世界で通用する強みなどありません」
「哲学の立場からすれば当たり前のことですが,こうして実際に自分を深く掘り下げた結果として出てくるのは矮小でつまらない自分自身です」
「自己啓発に惹きつけられてしまう人は,自分の中心に優れたものなど「なにもない」ことを潜在的に知っています。その虚しさがあるからこそ,自己啓発に希望を見いだしてしまうのでしょう」
これは,図星すぎて苦笑いです。
先日,前田祐二さんオススメ「自己分析1,000問ノック」を達成しました。
その達成感は絶大で,自身の根本的な価値観を確認することはできましたが,これまで認識していなかった隠れた才能や一面を新たに発見したかといえば,そんなことはありません。
そして著者はこういいます。
「私が声を大にして主張したいのは,自分というつまらないものを探求することをやめにして,この世界という素晴らしいものを探求しようということにつきます。それが1周回ると,自分が(他者から見て)面白い存在になっているかもしれません(保証はできませんが) 」
経験上,1,2度くらいは自己分析をとことんやってもいいと思います。
しかし,深く深く,閉鎖的に自分の内面に向き合うより,ストレングスファインダーを活用したり,他者に自分の強み,弱みを指摘してもらったほうがよほど新たな自分の一面を発見する確率は高く,はるかに効率が良いと思います。
【自分こそ正しいと思ってはいけない?】
本書では,「自分こそ正しいと思ってはいけない」といいます。
少々長くなりますが,引用します。
「この「自分こそが正しい」という認識は,自分とは異なる価値観を否定することでしか存在し得ないものです。同時に,他者からのアドバイスを聞くことができなくなるし,歴史に裏付けされた人類の知恵からも学ぶことができなくなります 。
そしてこの「自分こそが正しい」という認識の背景にあるのは,人間の承認欲求です。その根幹は,生存と生殖を目的としている,生物の本能でもあります」
(中略)
「現実社会において,暴力によらず「自分こそが正しい」と主張するためには,ビジネスやスポーツなど,何らかの世界で成功し,富と名声を手に入れるしかありません。しかし,ここまで考えてきたとおり,そうした成功を手に入れられる人は,ごくわずかです。むしろ,成功しない人のほうが大多数というのが,哲学的な現実と言わざるを得ません」
「みんな違っていて,みんなが正しい」という現代のダイバーシティにも通じるプロタゴラスの相対主義は,「自分こそが正しい」という認識の弊害を克服できなかった,事実としていまだに私たちは戦争をしていると著者はいいます。
しかし,私は「自分こそが正しい」という認識の弊害は克服できるのではないか,克服しなければならないのではないか,と思います。
たとえるなら,現在の社会経済システムは,かつての日本の戦国時代のようにトーナメント方式で天下統一を目指し,多くの敗者の犠牲の上に一人の覇者を決める「弱肉強食システム」「ひとり勝ちシステム」と基本的に変わりません。
そうではなく,江戸時代における藩政やアメリカ合衆国における各州の自治のように,個人レベルにおいても,広く浅く多数のターゲットを対象とするのではなく,自分の興味関心のある狭く深く少数のコミニュティを対象とした事業の活性化を図り,「彼も正しい」「彼女も正しい」「自分も正しい」と共存共栄を図れる社会経済システム(ビジネスモデル)が構築できれば,ある程度の経済的成功を収めることが可能ではないでしょうか(いわゆるスナックのようなビジネスモデル。スナックはコンビニより多く存在する)。
【社会的弱者として生きることは自己責任ではない?】
著者はダーウィンの進化論を以下のように説明します。
ここで注意したいのは,自然淘汰からの脱落者は,自己責任で脱落しているのではないという点です。それはたまたま,自分の才能(形質)が活かせる環境が見つからなかった偶然によって決まっています。進化論は,個体が努力することによって,自らとその子孫の運命を変えるということ(獲得形質の遺伝)を否定しています」
これは,ドキッとさせられる恐ろしい内容です。
なぜなら,自分が持って生まれた才能が,現代社会という環境で活かせるものでなければ,いかに努力しても自身の才能を変えることはできず,脱落せざるを得ないことを意味するからです。
これに対して,人間は他の生物と異なり,努力によって運命を切り開くことができると反論する向きもあるでしょう。
ただ,それは,「現代社会という環境で活かせる特定の分野に,興味を持って努力を投入できる才能があったから」と解釈することも可能であり,そうするとやはり「個体の運命は遺伝と環境によって決まる」という不都合な事実は揺るぎません。
一瞬,身震いするほどの絶望と恐怖を感じたのは,この厳然とした事実を前に,自身も淘汰される側の社会的弱者になるかもしれないと感じたためです。
たとえば,ビル・ゲイツとスティーブ・ジョブズはともに1955年生まれ,孫正義さんは1957年生まれであり,彼らの10〜20代はちょうどパソコン黎明期という「環境」に当たりました。
もし,彼らがもう3年,いや1年早く,あるいは遅く生まれていたら,マイクロソフトもアップルもソフトバンクも生まれることはなく,あれほどの才能の持ち主でも社会的弱者となっていたかもしれません。
<Darwin Photo by Pixabay>
【希望はない?】
さらに,著者は追い討ちをかけます。
生物の場合,脱落者になることは即,死を意味しますが,人間の場合,医療や社会福祉を充実させてきた結果,悲惨な状態のまま長生きする個体が多数発生します。
さらに,それを避けようとして,あるいはそうなったため,様々な意味での「略奪」「戦争」が起こりやすい状態が生まれます。
もはや,希望は残されていないのでしょうか?
これを避けるため,1つの対策は科学技術の開発を環境の収容能力を高める方向へ寄せることが考えられるが,実現は厳しいだろう。
もう1つの対策は,富の配分効率を徹底的に高め,社会福祉を今よりずっと充実させること。
自然淘汰の圧力が大きいところでは進化も起こりやすく,世界中のどの国より少子高齢化と人口減少が進んでいる日本こそ,このチャレンジへの対応策を世界に示すチャンスであると。
私は,前者の科学技術の開発による対策も,十分期待できるのではないかと思います。
たとえば最近,培養肉の研究開発が進んでいます。
これが実現すれば,大量の家畜やそれを飼育する水や飼料が不要になり,世界の食糧事情が劇的に変革される可能性があるでしょう。
後者の対策は,富の配分効率の向上(具体的には税制改正)など国が決定・実行する部分が大きいと思われますが,広い意味での社会福祉の充実は,私たちが主体的に関わって実現できることもありそうです。
【まとめ】
「おわりに」で,著者は以下のように述べています。
私たちは,なりたい自分になることはできませんが,偶然,他者の環境になれるということです。一般には,「私たちは他者を変えることはできないが,自分は変えられる」と言いますね。あれは嘘です。正確には「私たちは自分を変えることはできないが,それと意図せずに,他者であれば変えることができる」というのが真実です」
これは,なるほど,そうかもしれないと目から鱗でした。
「意識と無意識」の話でよく言われることですが,私たちが意識して決定することはごくごく限定的,いやほとんどゼロという説もあり,意識の背後には膨大な無意識への蓄積があります。
したがって,私たちは常日頃から他者・環境からの影響を大量に無意識のうちに浴び続けており,ある日突然それが顕在化するイメージではないかと思います。
本書という「環境」の存在により,間違いなく私の中の「なにか」が変わりました。
なにが変わったのか,今後それがどう転がっていくかはわかりません。
ざっくり言って,著者は俯瞰的,歴史的な視点から現実の深刻さと緊急性を知悉するだけに悲観的,私は無知ゆえに根拠もなく楽観的という差異は感じますが,その真摯で率直な姿勢には信頼と好感をおぼえざるを得ません。
やっばり,いつか会って話をしたいなあ(笑)
私のように,自己啓発や金銭的な成功に興味がある人こそ,手に取って大いに絶望と希望を感じてほしい1冊です(^^)