東日本大震災の記憶(2/3)
まもなく,東日本大震災から8年。
2011年3月31日,私は東京から仙台へ戻り,以来2年間,震災復興支援に携わりました。
この間,常に感じ続けたのは「閉塞感」です。
【目次】
【全体を覆う閉塞感】
「閉塞感」のひとつは,2万人近い死者・行方不明者を出した激甚災害が社会の雰囲気を一変させた事実です。
さらに,福島第一原発事故による影響は現在進行形です。
震災被害の実態を知れば知るほど,暗く,重く,沈んだ気分にさせられます。
【個人を襲う閉塞感】
「閉塞感」は社会全体を覆うのみならず,わが身にも降りかかってきました。
誤解を恐れずにいえば,「我慢くらべ」のような同調圧力。
「震災で大変な目に遭った人々に比べれば,ぜんぜんましでしょ?」
「いま必死で働かずに,いつ働くの?」
「まさか,帰りたいとか休みたいとか考えてないよね?」
誰かが言うわけではありません。
有無をいわせない「声なき声」が圧迫してくるのです。
【疲弊していく家族】
東京から仙台へ戻り,新しい仕事についた妻。
新しい職場に慣れるのも大変だし,子どもは1歳になったばかり。
「ママ―ッ!」と泣き叫ぶ娘を無理やり引きはがし,保育園に預けて出勤。
私は残業で遅いので,妻はギリギリ仕事を切り上げて娘を迎えに行き,帰宅。
夕飯を食べさせ,お風呂に入れ,寝かしつけしながら,娘より先に寝落ちする日々。
年中,疲れきった青白い顔色をしていて,休日は朝寝,昼寝,夕寝しないと次の1週間がもたない状態でした。
1歳の娘は食物アレルギーがあり,乳や卵が食べられません。
ふつうのパンや魚でもじんましんが出ることがあり,「いったい,何が食べられるんだ?」「こんな食事で,成長に十分な栄養が摂れるのか?」と夫婦で困惑。
娘も食べること自体が恐怖となり,かわいそうでした。
さらに,父は慢性腎不全。
週3回,人工透析で通院する必要があり,しばしば入院したり介助が必要でした。
家族全員がギリギリの状態で,余裕はまったくありませんでした。
【疲弊していく自身】
私自身も,多い時は残業が月120時間超。
土日出勤も珍しくなく,帰宅するのは夜9,10時。
もともと残業が嫌いなタイプで,「こんな非常時だからこそ,形式的な仕事はやめて,被災者のためになる仕事にリソースを注ぎ込むべき」と提案しましたが,「なかなか,そうもいかない」と却下。
ますます,ストレスを募らせました。
ぼりぼり手を掻きむしり,書類に血をつけながら,仕事に励む日々でした。
【だれにも言えない】
しかし,当時このような話は,誰にもできませんでした。
「大変かもしれないけど,程度の差はあれみんな同じでしょ?」
「家族や財産を失った被災者に比べれば,どうってことないでしょ?」
訴えたところで,そう返される気がしたのです。
約2年間,ひたすら耐えるしかありませんでした。
あのようなギリギリの日々で家族がよくもったものだ,特に妻が倒れなかったことは奇跡としか思えないほどです。
(つづく)
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