東日本大震災の記憶(1/3)
東日本大震災から9年。
正直,胸が苦しくなるので,震災当時のことはあまり思い出したくありません。
しかし,震災の記憶を風化させないことは被災地出身者の責務と思うので,自分なりの体験と思いを語り続けていきたいと思います。
【目次】
【負い目,忸怩たる思い】
2011年3月11日,東日本大震災発生時,私は仙台から派遣され東京で働いていました。
「震災発生時,仙台の人間でありながら被災地にいなかった」という事実は,今でもひとつの負い目となっています。
また,3月末に仙台へ戻るまでの約20日間,悶々と悩み続けるのみで何もできなかったことにも,忸怩たる思いがあります。
【一時帰郷】
幸いなことに,仙台の家と両親は無事。
わが家はオール電化住宅で,電気も水道も問題なく復旧していることはわかっていました。
東京では日中,私は仕事で家を空けており,妻と1歳になったばかりの娘が2人で留守番するのは不安。
「妻子は一足早く仙台へ帰り,両親と支え合った方がお互い心強いだろう」と考え,3月23日,妻子とともに仙台へ戻りました(数日後,私だけ再び東京へ)。
東京-仙台の東北自動車道は,緊急車両以外は走行不可。
東京から山形まで飛行機,山形から仙台まで高速バスで移動しました。
1歳の娘が飛行機やバスを怖がり,泣き叫ぶのではないかと心配でしたが,「キャッキャッ!」と喜んでいたことが救いでした。
仙台へ到着すると,驚いたことに市街地中心部の様子は,きわめて普通。
世界観測史上最大のマグニチュード9,震度7の地震が起きたとは思えないほど,何事もなかったかのように平穏な雰囲気でした。
【津波被災地区へ】
翌々日,仙台市で津波被害を受けた地域のひとつ若林区荒浜へ行きました。
その時の様子は下記記事をご覧ください。慟哭の記憶です。
荒浜の惨状を目の当たりにして初めて,私は「東日本大震災の本質」を体で理解しました。
すなわち,宅地被害はじめ地震の揺れ自体による被害はあったものの,30年おきに来る宮城県沖地震対策が奏功した部分が大きかったこと,しかし津波はまったくの想定外だったため激甚な被害をもたらした,ということです。
意外に思われるかもしれませんが,当時,津波被災地区に住んでいた人以外で,震災直後の津波被災地の様子を実際に見た人は多くありません。
なぜなら,食糧不足等それぞれが生活するのに必死であり,ほどなく津波被災地区は交通規制が敷かれ進入禁止となったたためです。
私は,たまたま,衝撃的な津波被害の実態を心身に焼きつけることができました。
【再び東京へ】
妻子を残して,再び山形経由で東京へ戻りました。
「仙台で避難所運営をした方が役立てるのではないか?」「1週間もすれば再び仙台へ戻るのだから,東京に戻っても大した仕事などない!」と思いましたが,組織からは「3月末まで,しっかり東京で働くように」と通達が来ており,従わざるをえませんでした。
荒浜の惨状を見て以来,無邪気に笑ったり喜んだりする機会が極端に減り、気持ちが晴れない日々が続きました。
時代と社会を覆う、得体の知れない空気,雰囲気が変わった。
その鬱々とした状態は,その後3,4年間も継続したように思います。
(続く)