魂熱新聞

〜失われた魂熱(タマネツ)を求めて〜

東日本大震災の経験〜その③〜

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【目次】

 

東日本大震災の経験①暫定部署に配属】

2011年4月1日,東京から仙台へ戻った私は,企画系の部署に配属されました。

震災のため通常の人事異動が遅れ,暫定的な配属でした。

 

発災から3週間が経ち,「今すぐ行動しないと人命が危ない」という時期は過ぎていました。

電気,ガスなどの都市インフラは復旧しつつあり,自宅で暮らせる方は避難所から既に引き上げていました。

 

避難所にいるのは,津波で家が流された方や,宅地被害で家に住めなくなった方に限定。

不眠不休で取り組まなければならない一刻を争う業務は,特段ないと考えられました。

 

組織の部署には,それぞれ役割があります。

人体であれば,脳には脳,心臓には心臓,胃腸には胃腸の「役割」があります。

各自がその役割を全うすることで,全体として機能します。

 

私の組織の中でも,避難所運営,瓦礫処理,支援物資配分など,部署ごとの役割分担が明確になされていました。

 

部署の担当業務は各種調整。

たとえば,温泉旅館の申し出を受け,長引く避難所生活の不便さを解消できるよう,避難者を温泉へ招待する調整等を行いました。

 

記憶が曖昧ですが,調整がなかなか進まず,「こんなことをしていていいのだろうか?」「もっと喫緊にやるべきことがあるのではないか?」と悩みながら取り組んだ記憶があります。

東日本大震災の経験②震災復興室に配属】

5月1日,震災復興室へ異動。

最優先目標は,震災復興計画を策定すること。

担当業務は復興計画の策定支援であり,復興計画の説明会を各地域で開催しました。

 

可能な限り市長自らが参加し,説明会を40回ほど開催。

市長は休みや食事をいつ摂っているのか?と心配される過密スケジュールで,実際,同僚は過労から倒れてしまいました。

 

市長は,「強力なリーダーシップが感じられない」など批判されることもありましたが,「市民に粘り強く丁寧に説明して,可能な限り納得してもらおう」と静かな戦いだったと私は理解しています。

 

説明会では,復興計画素案を住民に説明して質疑応答などを行いましたが,特に津波被災地域では厳しい意見を頂きました。 

中でも、災害危険区域(今後,再び津波が押し寄せる可能性が高い区域には,半永久的に人が住めないよう制限する区域)の設定に関しては,強い反対意見がありました。

それまで暮らしていた地域に住めなくなるわけですから,すんなり納得できないのは当然です。

 

ある地域では,激高した住民が当局説明者のマイクを取り上げてしまう一幕もありました。

しかし,市民の人命と財産を守る責任がある行政として,人命や財産が失われる危険のある区域に再び住まわせることはできない,と粘り強く丁寧な説明に努めました。

 

こうした住民説明会のほか,復興計画策定委員会での議論やパブリックコメント等を踏まえ,9月に震災復興計画が正式に策定されました。

東日本大震災の経験③支援物資の配布調整】

震災復興計画策定と前後して,宗教団体から提供いただいた寄付金を元に,仮設住宅で暮らす1万世帯に石油ストーブを配布する業務を開始。

 

宗教団体との調整や被災者の住所等個人情報の取扱い,また提供業者の選定で苦労しましたが,冬が訪れるギリギリのタイミングで石油ストーブを被災者に送付。

感謝のお手紙を頂戴するなど,直接的な手応えのある支援を行うことができました。

東日本大震災の経験④被災者支援システムの構築】

前後して,11月頃から被災者支援システムの構築を開始。

システムエンジニアの知識もない中,「どうやったら,1万を超える仮設住宅世帯の属性を正確に把握し,今後の支援に役立てられるか?」を検討。

システムセンターや業者と夜中まで議論を交わしながら,システムテストやデータチェックを行い,突貫で6ヶ月ほどで完成させました。

東日本大震災の経験⑤応援職員の存在】

多忙な日々ではありましたが,夏ごろから東京都の職員が数ヶ月単位で応援勤務に来てくれるようになりました。

非日常業務が随時発生する状況下で,マンパワーは必須。

志願して応援に来てくれる存在は大変ありがたく,短い期間ではありましたが,被災者支援のため濃密な時間を過ごすことができたと感謝しています。

 

ちなみに,業務量に比して圧倒的にマンパワーが不足しているため,心身の過労から次々に職員が倒れ,悲惨な事態に陥った部署もあったそうです。

東日本大震災の経験⑥まとめ】

応援職員の送別会では絶対に泣くまいと決めていたのですが,カラオケで森山直太朗の「さくら」を選曲。

「さらば友よ 旅立ちの刻」の部分で,自分で歌いながら自分が泣くという醜態をさらしてしまいました(苦笑)

 

社会人になってから,人前で涙を見せた記憶はありません。

震災以降,心身ともに異常な緊張状態が1年間ほど続いており,心の奥底に溜まっていたものが突如吹き出した瞬間だったのだと思います。

 

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