東日本大震災の記憶〜その①〜
【目次】
【東日本大震災の経験 ①14時46分】
2011年3月11日(金)午後2時46分、東日本大震災発生。
当時、仙台から出向して東京・霞が関で働いていました。
大きな仕事が一区切りを迎え、その夜は打ち上げを予定していました。
職場のビルもかなり揺れましたが、ニュースを見た周囲が「仙台が大変なことになっているぞ!」ということで、仙台市東京事務所へ向かうことに。
東京のマンションにいる妻子の無事は確認できましたが、仙台の実家の両親の安否は不明。
徒歩で移動途中、公衆電話から両親の携帯へ電話しましたが不通でした。
【東日本大震災の経験 ②16時】
仙台市東京事務所に到着。
テレビ、ラジオ、ネットで情報収集を始め、次第に深刻な被害状況が明らかになってきました。
ほどなく、津波襲来のニュース。
「仙台に津波?」「そんなバカな!」
その場にいたみんなが叫びました。
仙台では、宮城県沖地震が約30〜40年おきに発生しており、地震にはある程度慣れていました。
耐震補強など、宮城県沖地震の対策は着々と実施していましたが、津波が来るなど聞いたことも考えたこともありません。
ほどなく届いた「仙台市若林区役所が津波で水没」というニュースに、声を失いました。
私は若林区役所で働いていたことがあり、海岸からの直線距離は約9キロ。
仙台駅は、若林区役所から北西方向へ3キロほどしか離れておらず、「こんな内陸まで津波が到達したということは、仙台駅から東半分は壊滅か…」と思いました。
ところが、これは誤報でした。
「若林区役所のそばを流れる七郷堀まで、津波の一部が溯上してきた」という情報が誇張されて拡散されたものでしたが、それを知ったのは翌日のことです。
【東日本大震災の経験 ③18時】
「今日は情報収集以外,何もできないだろう。子どもも小さいし、奥さんも不安がっているだろうし、そろそろ帰たら?」
と促され、帰宅することに。
電車での帰宅は困難と考えられ、静岡市東京事務所の方に電動自転車を借りて、霞が関から赤羽まで約20キロの道を2時間ほどかけて帰りました。
もし歩いて帰っていたら5時間ほどかかったと考えられ、静岡市の方には大変感謝しています。
帰りの道中、帰宅難民と思われる人々が、居酒屋で楽しそうに飲んでいる様子をたくさん見かけました。
「どうせ電車も動かないし、しばらく帰れないのだから、飯でも食べよう」ということなのでしょうが、仙台の両親や友人の安否もわからない自分としては、やりきれない思いを抱きました。
【東日本大震災の経験 ④20時】
帰宅すると、妻はそれほど動揺している様子もなく、1歳の娘に怪我もなく、食器が多少割れたくらいで被害は軽微でした。
妻の話では、ちょうど友人とその子供が遊びに来ていた時に地震が発生し、友人はタクシーで旦那さんの所へ行こうとしたものの1時間経っても全くタクシーをつかまえらず。
業を煮やした妻が、雪が舞い散る寒さの中、娘を抱っこした状態で両手を広げて道路に飛び出し、なんとか友人を送り出したそうです。
さすが、元警官は強い!(笑)
【東日本大震災の経験 ⑤23時】
ようやく、仙台の両親から無事とのメールも届き、一安心。
仙台市東京事務所からおすそ分けしてもらった弁当を妻と食べ、ガスが止まっていたので風呂には入らず簡単に体を拭き、眠りにつきました。
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