ウェルビーイング・クエスト〜きくっちの日記〜

ウェルビーイング・クエスト=「心と体の幸せ」を探求して

私の3.11 その②

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震災から7年。

被災地に暮らす者のひとりとして,震災は暗い記憶で,正直あまり触れたくありません。

私自身は,身内や友人が亡くなったわけではなく,家も無事。衝撃的,感動的なエピソードがあるわけでもありません。

ささやかな自分の体験や思いを書くことが,何の役に立つかわかりません。

 

しかし,あれから7年。

私自身の記憶も薄れてきました。震災体験の風化です。

時の経過とともに,それはある意味で自然なことで,忘れることはなくても薄れなければ前へ進めない側面もあるでしょう。

けれども,忘れてはいけないこともあり、それは様々な形で後世へ引き継いでいかなければならない。

今,自分にできることとして,個人的でささやかな取組みですが,淡々と事実を書き残しておこうと思います。

 

前回は,311日当日のことを書きました。今回はそれから331日まで。

当時,私は霞が関の某省庁へ出向していましたが,4月には仙台へ帰還することが決まっており,そろそろ業務整理を始めるところでした。

しかし,仕事が手に付かない。自分は,こんなことをしていていいのか。今すぐ,被災現場へ駆けつけるべきではないのか。自問する日々が続きました。

 

まず,どうやって仙台へ行くか?

震災直後,東北新幹線東北自動車道も寸断され,かろうじて緊急車両が通行できる状態。

自転車で行くか?仙台まで350km。時速20kmで向かえば18時間。休憩しながら行けば20時間。朝6時に出れば夜中2時。

パンクしたら修理できるか?妻と1歳の娘を置いて行っていいのか?

 

仙台へ行って何をするか?

瓦礫や倒壊家屋の下敷きになっている人を救う?発災から72時間以上経てば,生存可能性は相当低い。瓦礫の除去や避難所運営?寝袋もなく寝床をどう確保するか。食料は?被災地まで行って食べ物ください,は迷惑極まりない。

 

決断できないまま10日ほどが過ぎ,東京から山形まで飛行機,山形から仙台まで高速バスで移動できることが判明。

たしか324日(木)頃だったと思いますが,妻子と3人で仙台へ向かい,私は引越準備があるため東京へ戻りましたが,妻子はそのまま仙台へ残すことにしました。

 

1歳の娘を何度も往復させるのは心配なことと,我が家はオール電化住宅で,震災翌日には電気が復旧して,生活インフラの心配はなかったためです。

父は週3回,人工透析のため通院していたので,父母と妻子とで協力して乗り切ってほしいとの願いもありました。

 

仙台に一時滞在した325日(金)夕刻,父と車で,津波被災地である仙台市若林区深沼と宮城野区蒲生へ行きました。

被災現場を一目見ておきたかったのと,父が友人と連絡が取れず心配だったためです。

津波襲来から2週間経っていましたが,よく知っているのどかな田園風景は皆無。見渡す限り異界のような瓦礫の山。

暴威,破壊,凄絶,凄惨,悲惨,憤怒,慟哭,荒廃,廃墟,虚無。

私は絶句し,父は一言「戦場か」と呟きました。

 

どこか見覚えのある廃墟があったので,車から降りてよく見ると「まどか荒浜」という知的障害者通所施設。

以前,福祉の仕事をしていた際,養護学校卒業後の進路相談に乗り,この施設へ通うことになった子供たちを何人も知っていました。

 

あの子たちは皆,死んでしまったのか。

そう思った瞬間,耐えていた堰が切れたように感情が溢れ,声を放って泣いていました。

 

夕闇の中,立ち尽くして泣いていると男性が近づいてきました。

「なぜ泣いているのか?」「まどか荒浜とどのような関わりがあったのか?」と聞いてくるので答えると,施設の子供たちは避難して全員無事だったとのこと。

「てっきり,亡くなってしまったものと勘違いしていました。無事だったんですね。ありがとうございます」と,少々恥ずかしい思いをしながら,本当によかったと安心しました。

 

それから再び326日(土)に東京へ戻り,マンションの引越作業。

東北自動車道は原則通行禁止のため,「引越をドタキャンされ,4月まで引越できない」という引越難民を何件も聞きましたが,私が依頼した引越業者は,緊急物資扱いで予定どおり荷物を運んでくれ,大変助かりました。

荷物を仙台へ送ってマンションを退去した後は,5日間ほどホテルから職場へ通いました。

 

そして331日(木),霞が関での最後のお勤めと挨拶を終え,その足で再び山形経由で仙台へ向かいました(続く)。